前身とぬるま湯
奇跡のコースのワークの中にこんな一文があった。
「神の救いは光である」と。
神の救いが光であるとすれば、その救いとは何なのか?
この間は、救いとは手放しではなかろうか?ということを考えたが、今日は
もし、神の救いがすぐそばにあるとしたなら、ただ私が気付いてないだけではなかろうか?と。
では、救われている状況である時、どんな気分になるんだろうかなと想像してみた。
たぶん、ホッとするとか、安心するとか、こういう気持ちなんじゃないかな。
幼い頃にお母さんやお父さんに抱っこされた時の安心感みたいな感じ。
そうか、そうだとしたら、もうとっくに体験してるじゃない。
何かが解決来た時の安堵感、誰かに肯定してもらった時の安心感、もう大丈夫だよというホッとした感じ。
それは体験したことある。
けれど、すぐにこうも思う。
「いつまでそんなぬるま湯みたいなところに浸かってるんだ!そんなんじゃ、堕落していくだけだぞ!」と。
誰かに過去に言われたのか?
それとも、どこかで見聞きしたセリフなのか?
どちらにしても、そう言って
「これはいかん!このままではいかん!」
と、その安心感のぬるま湯からそそくさと出なきゃいけない衝動にかられ、そうしてきたように思う。
けれど、そのぬるま湯安心感は神が私に与えてくれて救いの光だとしたら、なぜそこから逃げ出さなければいけないのか?
もう少し浸かっていたら、いいのではないだろうか?
いや、神ならこう言うと思う。
「ずっと浸かってなさいよ。そうしたら、ぽっかぽかに温まって、おのずと出たくなるから。その時は、もっと大きな強い光が待ってる方に行けるから」と。
そうだな、そうかもな。
だから、私はぬるま湯に浸かり続けようと思っている。
いつか、ぽっかぽかになって、火照った体で前進できるように。

